諦念と受容/禁欲的な未来

 

 


 ブルース・チャトウィンというイギリスの作家が、アボリジニーの美しい文化とその資本主義的破壊を扱った『ソングライン』という小説を書いている。その中にこんな一節があった。

'renunciation.' I said, 'even at this late date, can work.'
'I'd agree with that,' said Arkady. 'The world, if it has a future, has an ascetic future.' 
「自制することだ」と僕は言った。「まだ手遅れではない」
「そうだと思う」アルカディが言った。「この世界にもし未来ってものがあるなら、それは禁欲的な未来だろう」
(Bruce Chatwin, "The Songlines", Vintage Classics, p.133)

 禁欲的な未来。
 その言葉を見たとき、ふと、アデレードで過ごした数日間のことが頭に浮かんだ。今年の一月末、コロナウィルスのことがニュースになりだした頃だ。オーストラリアの海際の街で、北半球にあるから、一月は真夏だった。油分の多いユーカリの木が強い日差しを浴びて発火し、山火事を繰り返す、そんなような季節だった。

 私は自転車レースの観客として、アデレード郊外の、コースの脇に立っていた。その日は六日間のあいだ続いたレースの最終日で、リッチー・ポートというオーストラリア人選手が、故郷での優勝を果たすか、それとも二位に甘んじるか、という分かれ目の場面だった。
 私はこの選手が勝つのを見るためにアデレードへ来たのだ。比類ない強さを持ちながらどこか勝負どころを掴みきれない、そしてキャリアの最盛期を終えつつある三十五歳の好青年に、勝負というものが十分に報いるところが見たかった。周囲の人々も、固唾を飲んでオーロラビジョンを見守っていた。自国の選手には勝ってほしいものだ。
 と、リッチー・ポートを追うカメラに、一人の選手が映り込んだ。選手はするするとポートへ追いつき、あっという間に抜き去った。まるで一人だけ重力を免除されているみたいな速さだった。
 思わず、ああっ、と声が出た。周囲からも、オーウ、と残念そうな声が上がった。
 私はちょっと恥ずかしくなった。子どもっぽい反応をしてしまったなと思った。それに比べて、アデレードの人々は静かだった。怒声も、野次も、自国の花形選手からトップを奪い去った選手に対する苛立ちの声もなかった。ただ、残念そうな声色だけが、オーウ、と長く尾を引いていた。
 その、抑制された失望の声色には、聞き覚えがあった。どこでだろう……。考えていると、同じように暑い日の記憶が、ぼんやりと蘇った。その前年、平成から令和へ変わる境目の五月、ベトナムでのことだった。私はホテルのツアーバスで、ホイアンという街を訪れていた。

 ホイアンベトナム中部にある古い港町で、十六世紀に貿易港として栄えた。ポルトガルやスペイン、中国、日本、さまざまな国の商人たちが居ついては本国風の建物を作ったから、建築様式がぎちぎちと入り乱れている。日本風の橋も残っているし、夜になると色とりどりのランタンが灯って美しい。日本人には人気のある観光地だ。
 正直なところを言えば、私にとっては期待はずれだった。生ビールを頼めばタイガービール(これはシンガポールのビールだ)が出てくるし、生演奏で歌われるのはエド・シーランで、みやげもの屋ではシンプソンズのキャラクターがベトナム国旗を背にしている。沢木耕太郎が『一号線を北上せよ』で訪れていた料理店は、すばらしい立地と洗練された内装を持つすてきな店だったけれど、出された料理はみごとに観光客ナイズされた中華料理の味がした。まあ、当然だろう、と思った。彼が訪れてから今までの間にシェフが何人変わったかわからない。
 ランタンの流れる川に背を向け、バスの発着所まで歩いていきながら、遅すぎた、と思った。ひとつの美しい砂浜がある。それを目当てに人々が押し寄せて、お金という波で、何度も何度もその土地を洗う。比重の軽い砂は外洋へ押し流され、その波に耐えられる、ごつごつした重いものばかりが浜に残る。どんな土地も時間によって形を変える。私は遅すぎたのだ。
 発着所へたどりついて、乗るべきバスを探しあてる。まだドアが開いていないから、立って待つ。すると三人の、妙齢の女性たちがそうっと私に声をかけ、韓国人か、と英語で聞いた。日本人だ、と答えて首を振る。
 すると、彼女たちはそろって、オーウ、と残念そうな声を上げた。私はちょっとあたたかい気分になってにこっとした。国籍を開示して残念がられたのは初めてだった。
 彼女たちは私と同じ、フュージョン・スイーツというホテルに泊まっていて、このバスが本当にそこへ行くのかどうかを気にしていた。私はスマートフォンで昼のうちに撮った写真を表示した。バスのナンバープレートをさして、セイム・ナンバー、と言う。
 セイム・ナンバー、と嬉しそうに言って彼女たちはバスへ乗り込んだ。(それから運転手に「フュージョン・スイーツ?」と聞いて鬱陶しがられ、また「オーウ」と残念そうな声を上げた。そのときの運転手は、愛想がないというか、ほとんどふてくされていた。)
 バスの運転は行きと同じく乱暴で、また車内の空調はききすぎていた。窓辺をすべっていく風景を見ながら、上品なひとたちだったな、と思った。私にとっては期待はずれだったホイアンの印象へ、その三人連れの優雅で悪意のない反応が、清潔なシルクのハンカチみたいにふわりと覆いかぶさった。

 もし、と考える。
 ツアーバスの運転手に冷たくあしらわれたら、あるいは、キャリアのピークを越えつつある日本人選手の勝利が妨げられる場面を目にしたら(たとえば、ツアー・オブ・ジャパンの伊豆ステージを制そうとする新城幸也を、ネオプロの外国人選手が異次元的な速度で追い抜いていったら)、私は「オーウ」という悲しげな声でだけ、その場面に応えられるだろうか。
 たぶんできないだろうと思う。そこには怒りの甲高い声色や、あきらめ混じりの冷笑や、いらだたしげなため息が、混じるのではないかなという気がする。最低でもその日の夜までは難しい顔をしてぶつくさ言うだろう。リッチー・ポートが追い抜かれたときのオーストラリアの人々や、運転手につめたくあしらわれたホイアンの女性たちみたいに上品な反応は、少なくとも反射的には出てこない。
 上品さ、抑制、あるいは、諦念と受容。
 羨ましいな、と思った。その美質を私は持ち合わせていない。

 そういえば、アデレードへついて最初の夜にも、こんなことがあった。
 友人について、チャイナタウンの飲食店街を歩いていた。テーブルと椅子が歩道にまであふれ出し、人々は夜風と食事を楽しんでいた。土曜の夜だけあってどこも満員だが、店ごとに人種的住み分けがあるようで面白い。
 と、混みあった道の途中で、ちいさなトラブルの気配があった。やりとりの声を聞いていると、歩道のテーブルへついていた中国人観光客が、通りすがった人にぶつかったか何か、したようだった。声の方を目で追う。ひときわ背の高いカップルが人ごみの中へ頭を出している。どうやら女性の方が当事者だ。金髪の女性は斜め下へ向かってにこっと笑い、気にしないで、というふうに首を振った。そうして通りすぎざま、ハッピーニューイヤー、と澄んだ声で言った。
 ずいぶん抑制のきいた人だな、と思った。なにしろ今年の一月末である。武漢新型コロナウイルスが流行しているというニュースはオーストラリアでも大きく報じられていた。春節の人の移動に乗じてウイルスが広まるのではないかという懸念は、もちろんあったはずだ。シドニーの入国審査官はマスクをつけて私たちを迎えた。それなのに彼女は愛想よくふるまうことを忘れなかった。異なる文化圏の祝日に敬意を表しさえした。
 ふうん、と思いながら友人と別れてホテルへ戻った。翌日は朝早くから予定があり、急いで眠らなければならなかったが、神経だけが冴えていた。本当なら缶ビールのひとつも開けたいところだが、売っていないのでどうしようもない。シャワーを浴び、炭酸水を飲む。
 オーストラリアには、コンビニやスーパーで酒類を売る習慣がない。欲しければ店で飲むか(そこそこ高価だ)、または酒販店へ行かねばならないのだけれど、アデレードの街中には酒販店自体が少なく、休日は十七時に閉まってしまう。分厚い財布と計画的購入なしにはアルコール依存症にもなれない街なのだ。
 明かりを落としてベッドへ入り、体を起こして、炭酸水の残りを飲む。ウィスキー・グラスみたいに大きなガラスコップの中で、炭酸のはぜる音がぱちぱちと弱く起こった。白色の街明かりが泡の表面に映っては消えた。それを見ていると、欲望、という言葉が頭に浮かんだ。欲望の抑制された街。

 翌日はレース観戦用のバスツアーへ参加することにしていた。そのための早起きである。
 時間より十分ほど早く集合場所へ着くと、すでに大勢が集まっていた。それでいて、時間に厳しい人々に特有の、きびきびとした熱意は感じられなかった。水が傾斜にそって流れるように自然に列へ並び、受付を済ませ、決まったバスへ吸い込まれていく。バスへ乗り込むと、年配の参加者が多いというのもあるだろうが、車内はしずかだった。
 しずかなバスに乗ってスタート地点へ向かい、レースが始まるのを見る。それからまたバスに乗って次の観戦地点へ向かう。人々はリハーサルを済ませてきたみたいにスムーズに動いた。(レースの最終日だったから、何割かの人々はツアー慣れをしていただろうけれど、それにしても。)
 その日、リッチー・ポートはそれまでの五年をとおして守り続けたウィランガ・ヒルでの勝利を逃し(人々は「オーウ」と悲しげな声を上げた)、しかし六日間の累計で総合優勝を手にした。三十五才の好青年に、レースはきちんと報いた。

 そのレースはオーストラリアン・デイという祝日にあてて開催されており、レース最終日にあたる土曜日、アデレードにはお祭りの空気があふれていた。さまざまな民族衣装や、スケーター・クラブの揃いのポロシャツや、ディズニーキャラクターの衣装を着た実に思い思いのグループが、目抜き通りから北へ向かってゆっくりとパレードを始めた。街の北には運河があり、広大な芝生や野外ステージをそなえた公園が、運河をとりまくように広がっていた。人々はレジャーシートを広げてピクニックを楽しみ、晴天の下、長いパレードを続けてきた人々を、屋台のスナックをかじりながら見守った。夜には花火が上がり、大掛かりなライブイベントもあった。
 ライブイベントを見物すると、ステージの前で踊っているのは、おそらくほとんどがティーンエイジャーだった。ステージから遠い場所へ陣取った人々は、まるでちょっと密集したピクニックですとでも言うように、行儀よく芝生へ座っている。若者たちに混じって花火を眺めながらちょっと恥ずかしい気分になった。この街ではしゃいでいるのは子どもだけなのかもしれなかった。

 それでは、大人たちは、欲望をどこへやったのだろう。
 シドニーに移動したあと、金曜の夜に街へ出た。と言っても一人旅だから、見学、というくらいのことにおさめておいた。
 夜半、ベンチに座ってトラムを待ちながら、眺めてきた風景をぼんやりと思い起こした。クラブの列へ並んでいるのも、ホテルという名の酒場から吐き出されてくるのも、二十歳そこそこの若者ばかりのように見えた。銀座コリドー街に通勤用スーツが溢れているさまとは、どうも似ても似つかない。
 向かいのベンチには高校生くらいに見える三人連れが座っており、真剣な顔つきで何かを話し合っていた。混雑したマクドナルドの前を、みごとに酔っ払った若い女性が走り去っていった。彼女は裸足で、両手に自分の靴を下げていた。
 駅のまわりにはいくつかの集合住宅があって、ほとんどの窓が暗く寝静まっていた。明かりの消えた窓の奥で、大人たちはもう眠っているのだろうか。酒を飲んで騒ぐことや、音楽に合わせて踊ることや、気に入らない事態に対して不満を露わにすることは、もうきれいに諦めてしまったのだろうか。私は黒い窓を羨ましく見上げた。三十路へ踏みいってずいぶん経つのに、私は未だに、自分の欲望を手放せずにいる。星のたくさんついたホテルに泊まること、シャンパンのフリーフロー、長いこと抱え込んでいる見込みのない恋愛。それを追ったところで実りのないことは分かっているのに……。
 頭上には明かりのない窓が並んでいる。窓ガラスの向こうは、おだやかに静まり返っている。

 ……この世界にもし未来ってものがあるなら、それは禁欲的な未来だろう。
 この人たちはそのラインをうまく辿っているのだ、と私は感じた。抑制のきいた、夜には缶ビールひとつ買うことのできない、穏やかでパンクチュアルな街に、諦念と受容とを心得た人々が住んでいる。
 それを成熟と呼ぶのは飛躍かもしれない。あるいは、自分が成熟していないものだから、そうと認めるのが気に入らないだけかもしれない。しかし、望もうと望むまいと、その方向へ押し流されている最中である。世界は感染症の陰に入り、倫理は変形を始めている。あのとき私が成熟と見たものは、今や適応と同じ形をしている。

 夜半、駅のベンチに座って、一人トラムを待っている。まわりでは若者たちが騒いでおり、家々の窓は暗く寝静まっている。
 おだやかな眠りの中にいる人々に向かって、心の中で呼びかける。ねえ、あなたたちはどうやって、欲望を諦めたのですか。その方法を教えてはくれませんか。……真夜中、本数の少なくなったトラムが、駅へすべりこんでくる。煌々と光のともった車内に、人の姿は少ない。